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ボランティアの時代

正月に地震津波、秋分の日に豪雨が押し寄せた。令和6年、能登の海も山も里も一変した。珠洲市民の多くが市外へ避難した。代わって、全国から様々な人々がやって来た。自衛官警察官、復興支援業者、研究者、スピリチュアル系、等々。発災前、コンビニに行っても銭湯に行っても「どっかで見た顔」ばかりだった。最近、買い物に行くと、店内が「見知らぬ顔」ばかりで、ハッとする。


5月、近所の空き家(三崎町寺家下出)を解体業者が借りた。入れ替わり十数人が住み始めた(内、外国人2名)。毎朝、日が昇る頃、出勤し、夜更けに戻って来て、毎晩楽しそうに酒盛りをし、休日は魚釣りをしている。「珠洲を満喫している」


9月14日、須須神社例祭日、一応キリコは出た。けれど倉庫から出して並べただけである。神輿は出なかった。よって祭りではない。昭和であればこの状況で「祭り」などあり得ない。令和だからこそイベントとしてキリコが登場した。「地域が元気になれば」という大義名分の元、一部の地域住民と多くのボランティア(模擬店も担った)で賑わった。


9月21日豪雨によって寺家漁港沿い専念寺前の塩津橋両脇が陥没し以北が孤立した。その直後、知り合って間もないボランティアから「困っている人の為に」と飲料水が計94ケースも我が家に届いた。断水中、専念寺「涸れない井戸」は、ボランティアの手によって復活した。電動ポンプも設置しチラシも作ってくれた(寺家上野地区通水10月11日)。


発災前から「限界」が来ていた地域が「ボランティアの力」で「新しい形」で整えられようとしている。寺家には戦時中疎開しそのまま移住した人もいれば、数百年前移住した「若狭」「近江」という名字もある。災害があったからこそ移住を考える人もいるだろう(既にみさき小学校に転入児童2名)。



寺家歴史研究会 出村正幸







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